詩の日めくり 二〇一四年十一月一日─三十一日

By   2015-10-29

詩の日めくり 二〇一四年十一月一日─三十一日

田中宏輔

もくじ。

二〇一四年十一月一日 「She’s Gone。」

風水って、よう考えてあるえ。
そなの?
東西南北すべてに地上があって宇宙があるのよ。
東に赤いもんを置くのは、あれは、お日さんがあがってきはるからやし
西に黄色いもんを置くのは、あれは、お月さんの明かりを表してあるのんえ。
へえ。
ちょっと、きょう撮ったこの花見てえな。
なになに。
これ、冬桜。
へえ、大きいの?
アップで撮ったから大き見えるけど、こんなもんえ。
と言って、右手の人差し指と親指のあいだをつづめて2、3センチにして見せる。
藤とザクロと枇杷は、家の敷地のなかには植えたらあかんえ。
なんで?
根がものすごう張るし、上も繁殖するから、家のなかに光が入らへんのえ。
そだよね。
藤の花って、きれいだよね。
むかし、船くだりして見た藤の花の美しさには、びっくりした。
トモくんといっしょに、船で川くだりしてたときに見たんだけど
船頭さんの話を聞かされながら川をくだってたんだけど
がくんとなって、はっとして見上げたら
数十メートル先の岩頭に、藤の花がまといつくように
いっぱい咲いていて、あの紫色の花が
太陽光線の光で、きらきらきらめいて、ほんとにきれいやった。
突然、ふっと目に見えるところに姿を現わしたってことも
その美しさをより増させたように思う。
こころの準備のないときに、ふっと姿を現わすということ。
このことは、ぼくにヴァレリーの、つぎのような言葉を思い起こさせた。
それとも、つぎのようなヴァレリーの言葉が、ぼくにこのような感慨を抱かせたのか。

 兎は、われわれを怯えさせはしない。しかし、兎が、思いがけず、だし抜けに飛び出して来ると、われわれも逃げ出しかねない。
 われわれに取って抜き打ちだったために、われわれを驚嘆させたり、熱狂させたりする観念についても、同じことが言える。そういうものは、少し経つと、──その本来の姿に戻る……
(『倫理的考察』川口 篤訳)

二〇一四年十一月二日 「Sara Smile。」

ずいぶん、むかし、ゲイ・スナックにきてた
花屋の店員が言ったことだったかどうか
忘れてしまったのだけれど
切花を生き生きとさせたいために
わざと、切り口を水につけないで
何日か、ほっぽっておいて、かわかしておくんだって。
それから、切り口を水にさらすんだって。
すると、茎が急に目を醒ましたように水を吸って
花を生き生きと咲かせるんですって。
さいしょから
たっぷりと水をやったりしてはいけないんですって。
そうね。
花に水をやるって感じじゃなくって
あくまでも、花のほうから水を求めるって感じでって。
なるほどね。
ぼくが作品をつくるときにも
さあ、つくるぞって感じじゃなくて
自然に、言葉と言葉がくっついていくのを待つことが多いもんね。
あるいは、さいきん多いんだけど
偶然の出会いとか、会話がもとに
いろいろな思い出や言葉が自動的に結びついていくっていうね。
ああ
なんだか
いまは、なにもかもが、詩とか詩論になっちゃうって感じかな。
書くもの、書くもの、みんなね。

すると、マイミクの剛くんからコメントが

たしか
水の代わりに炭酸水をやるといいらしいですよ

これも
ストレスみたいなものでしょうね

ぼくのお返事

初耳でした。
ショック療法かしらん。

すると、またまた、剛くんからコメントが

ヴァレリーの兎みたいですね。

ぼくのお返事

そうね。
そして、その驚きが長続きしないように
切花も
ポエジーも
瞬間的沸騰をしたあとは
じょじょに
あるいは
急激にさめていくという点でも酷似してますね。
ふたたび熱されることはあってもね。
まえより熱せられることは
まれですね。
シェイクスピアや
ゲーテくらいかな。
ここに
パウンドをくわえてもいいかな。
あと
ボードレールくらいかな。
きのう
おとつい
ずいぶんむかしの自分のメモを読み返して
ボードレールのすごさに
感服してました。

すると、またまた、剛くんからコメントが

あつすけさんは、ボードレールをどの本でどの訳で読みますか?

ぼくのお返事

人文書院の全集を持ってるから、それで。
詩は文庫で堀口さんと三好達治だよ。

マイミクの阿部嘉昭さんからもコメントが、じつは、うえの剛くんとの応答の前に

水で蘇るというのは
やはり魔法ですね。

花田清輝『復興期の精神』の
「クラヴェリナ」は
はたして実在の生物なんだろうか。

ぼくのお返事

花だ性器ですね。
読んだことがないのですが
ああ
まだまだ読んだことのないものだらけです。
読むリストに入れておきます。

二〇一四年十一月三日 「If That’s What Makes You Happy。」

ときおりボーッとしているときがあるのだが
放心と言うのだろうけれど
わたしはときどきそういう状態になるが
起きているあいだにも
自我が休息したいのだろう
魂が思考対象と共有する部分を形成しないときがあるようだ

孫引きされたマルセル・モースの『身体技法』を読んで
こんなことを思った
たしかにそうだ
人間は食べることを学んで食べることができるのだ
話すことを学んで話すことができるのだ
愛することも学ばなければ愛せないだろう
愛することのはじめは愛されること
また他人がどう愛し愛されているかを知ることも大事
自分とは違った人間が
自分とは違った愛され方をし
愛し方をしていることを知るのも大事

食べ方が違う
話す言葉が違う
愛し方が違う
いま同じ日本にいる人間でも
ひとりひとりどれだけ違うか考えると
人間というものがいかに孤独な存在かわかる
かといって
同じ食べ方
同じ言葉
同じ愛し方
これは孤独ではないが
とてもじゃないけれど
受け入れがたいことだ

まるでミツバチのようだ

マルセル・モースの『身体技法』から
ずいぶん離れたかもしれないけれど

ふと思ったのだが
愛もまたわたしという体験からなにかを学ぶのかもしれない
神がわたしという体験を通じて学ぶように

エドモンド・ハミルトンの『蛇の女神』(中村 融訳)を読んでいると
「音には目をくらませる力がある」とあったのでメモしていたら
ジミーちゃんから電話があって
「あなたの詩は
 リズムによって
 理性が崩壊するところがよい。」
と言われて
ものすごい偶然だと思った

正確に言うと
電話があったのは
メモをルーズリーフに清書しているときにだけど

その花は肛門をひろげたりすぼめたりしていた。

二〇一四年十一月四日 「シャロンの花」

 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『輝くもの天より堕ち』を読み終わった。ぼくが満点をつけるSFは10冊から20冊のあいだの数だと思う。けっして少ない数ではないが、これは満点以上のものだった。本文517ページに、「シャロン」あるいは「シャローン」は「そこらの女」という意味の俗語だという割注があったのだけれど、ぼくの辞書やネットで調べても、そういう意味がなかったが、シャロンというのはイスラエル西部の肥沃な場所で、もとは「森」の意とあった。俗語に詳しくないし、ネイティヴでもないので、「シャロンの花」とかいった言葉が聖書にあるが、そういったものが転用されて、俗語化して卑俗な意味になったのかもしれない。これは、いつか、ネイティヴの知り合いに話す機会があれば、訊いてみようかなと思う。物語に夢中になって、引用メモすることをいっさいせずに読み切ってしまったので、これから印象に残った言葉を探さなければならない。一か所だけだけど。内容はだいたいこういうもの。「すべてのもとは、子どもの時代になにをしたかということ。」もちろん、ぼくは、「なにをしなかったか。」ということも大事だと思うけれど、いまからできることも大事だとも思う。数時間前の読書なのに、記憶が違っていた。本文497ページ「もしもあなたが年を経た金言を聞きたければ、わたしはこういいたい。幼いころにあなたがやるすべての行動、そして起きるあらゆることが重要だと。」(浅倉久志訳)

二〇一四年十一月五日 「お風呂場」

お風呂場でおしっこしたり、セックスしたり、本を読んだり、ご飯を食べたり、自転車に乗ったり、家族会議を開いたり、忙しいお風呂場だ。

二〇一四年十一月六日 「言葉」

言葉にも食物連鎖がある。
言葉にも熱力学の第2法則がある。
言葉にもブラウン運動がある。
言葉にも屈光性がある。
言葉にも右ねじの法則がある。
言葉にもフックの法則がある。

二〇一四年十一月七日 「ヴォネガットの『国のない男』を読んで」

人間というのは、何かの間違いなのだ。
(ヴォネガット『国のない男』2、金原瑞人訳)
たまには、本当のことを書いてみたらどうなの?
(ヴォネガット『国のない男』2、金原瑞人訳)
ご存じのように、事実はじつに大きな力を持つことがある。われわれが望んでいないほどの力を。
(ヴォネガット『国のない男』2、金原瑞人訳)
 

  〇

 いくつか全行引用詩に使えそうなものを抜き書きしてみた。しかし、読んだ記憶がある文章も書いてあった。もしかしたら、読んだ本かもしれない。つぎのような個所である。

  〇

 思い切り親にショックを与えてやりたいけど、ゲイになるほどの勇気はないとき、せめてできそうなことといえば、芸術家になることだ。これは冗談ではない。
(ヴォネガット『国のない男』3、金原瑞人訳)

  〇

 そいえば、ヴォネガットも専攻は化学だったらしい。ぼくと同じで、親近感が増すけど、ヴォネガットのような経験もやさしさや思いやりも、ぼくにはないので、人間はぜんぜん違う。ヴォネガットは、こうも書く。

  〇

 詩を書く。どんなに下手でもかまわない。ただ、できる限りよいものをと心がけること。
(ヴォネガット『国のない男』3、金原瑞人訳)

  〇

「できるだけよいものをと心がけること。」これは、もちろん、ぼくもいつも思っていること。

二〇一四年十一月八日 「ヴォネガットの『青ひげ』を読んで」

 たまにする失敗。本のうえで、開けたページのうえで、メモをとっているときに、ペンがすべって、メモしてる紙からはみ出して、本のページのうえを、ペンがちょろっと走ること。いま、ヴォネガットの『青ひげ』184ページのうえで起こった。2行+***+2行目の下のほう、「途中ずっと」の左横で。読書が趣味なだけではなくて、うつくしい表紙の本のコレクターでもあるぼくは、以前なら、本のページがちょっとでも汚れたりしたら、発狂した人間がとる行為のような勢いで部屋のすみに本を投げつけたりしたものだけれど、きょうはおとなしかった。どうしてだろうか。いや、むしろ落ち着いておとなしい、いまのぼくの精神状態のほうが、以前の精神状態よりも狂っているような気がする。ちょっとしたインクの汚れ、これが数時間後に、あるいは、数日後に、頭のなかで、巨大な汚れとなって発狂したような状況を引き起こすかもしれない。などと、ふと考えた。いったい、ぜんたい、ぼくは、本の価値をどこに置いているのだろうか。内容だろうか。文字の書かれた紙という物質だろうか。その紙面の美しさだろうか。表紙の絵の好ましさだろうか。いや、そのすべてに価値がある。ぼくには価値があるのだった。そうだ。ぼくのメモの走り書きがなぜ、印刷された文字の左横に存在するのか説明していなかった。ふだんのメモや文章は、すべて横書きにしているのだが、このときのメモにはもう余白がほとんどなく、メモ用紙の下から引き出し線をちょこっと上に書いて、そのあと、メモ用紙の右の残された少ない余白に、それは縦2cm、横5mmほどのものだったのだが、そこに「縦書き」で変更メモを書いたのだった。それが、本のページに縦にペンの走った跡が残される理由だったのである。ちなみにその少ない余白に書いたぼくの言葉は、「別の現実の」であった。ここだけ赤色のインクである。なぜなら、まえの言葉「ある事柄の」のうえを赤線を引いて書いたものだからである。それまでのメモは、そのメモ用紙に関しては、黒インクだけで書いていたからであった。ちなみに、メモ用紙のした3分の1を訂正含めて書き写すと、「p.184うしろ l.6-7参照 現実の出来事が象徴そのものとなることがある。あるいは、現実が別の現実のメタファーとなることがある。(自作メモ)」である。もとの本にはこうある。「ときには人生そのものが象徴的になることがある。」(浅倉久志訳)さて、ぼくがいったい、ふだん、本を読んでなにをしているのか、その一端を披露したのだけれど、本を読んで、その本に書かれた事柄をさらにひねったものにしたり、逆にしたり、拡げたり、一般化したり、パーソナルなものにしたりして、変形しているということなのだ。初期の読書では、詩人や作家の書いたものの解釈をしていたのだが、あるときから、本に書かれた内容以外のものも含めて「読書」に参加するようになったのだった。いわば読みながら創作に関与しているのだった。これを正当な読書だと言うつもりはない。ぼくの読み方だ。ところで、つまらない作品だと思うものに大量のメモをすることもあれば、傑作だけれど、いっさいメモができなかったものもあるのだが、おそらくさきほど書いたような経緯もあるのだろう。あまりに完璧すぎてメモができなかったものにP・D・ジェイムズの『正義』がある。いや、『正義』からもメモをした記憶がよみがえった。しかし、ぼくの頭は不完全なので、あったことのない記憶もあれば、なかったことのある記憶もあるらしい。メモしていなかったかもしれない。読書に戻ろう。ヴォネガットの『青ひげ』への感情移入度がきわめて高い。ふと思ったのだが、「現実が別の現実のメタファーとなることがある。」は、「ある一つの現実がそれとは別の一つの、あるいは、いくつかの現実のメタファーとなることがある。」にしたほうがいいだろうか。いじりすぎだろうか。まあ、状況に合わせて変形すればよいか。そいえば、さっき、ヴォネガットの『青ひげ』(浅倉久志訳)を読んでいて、「「まちがいね」と彼女は言った。」を、さいしょ、「「きちがいね」と彼女は言った。」と読んでいた。ルーズリーフにメモしようと思って再読して勘違いに気がついた。疲れているのだろうか。きのうもほとんど眠っていない。クスリの効きが落ちてきたようだ。

二〇一四年十一月九日 「アップダイクの『走れウサギ』を読んで」

 ジョン・アップダイクの『走れウサギ』の冒頭の2ページを読んで、あれっと思い、さらに2ページを読んで確信した。これ、まえに読んで退屈だと思って、捨てた本だった。しかし、いま読むとメモ取りまくりなのである。ぼくの言葉の捉え方が変わったのだと思う。こういったことも、ぼくの場合、めずらしくないんだな。

二〇一四年十一月十日 「amazon」

こんなやつに笑われたひとは、こんな連中にも笑われています。

二〇一四年十一月十一日 「おれの乳首さわってみ。」

ふざけ合った。
「ほらほら、おれの乳首さわってみ。」
ケンコバが、ぼくに彼の脇のしたをさわらせた。
「これ、イボやん。」
「オレ、乳首3つあるねん。」
「こそばったら、あかんて。」
ああ、楽し、と思ったら目が覚めた。

二〇一四年十一月十二日 「かわいいおっちゃん」

 きょう、近所のスーパー「フレスコ」で晩ご飯を買ってたら、ちょっと年下かなと思えるかわいいおっちゃんがいて、見たら、見つめ返されたので、目線をそらしてしまった。目線をそらしても、まだ見てくるから、近所だからダメだよと思って、顔を上げないで買い物をつづけたけど、帰ってから後悔した。こういうときに、勇気がないから、ときめく出会いができないんやな、と思った。数か月に1度くらいある、稀な機会やのに。また会うかなあ。ここに住んで10年くらいで、はじめて見た顔やったから、もう会わへん確率が高い。もったいないことをしてしまった。ちょっと声をかけるだけでよかったのに。

二〇一四年十一月十三日 「卵は廻る」

一本の指が卵の周りをなぞって一周する
一台の自転車が地球のまわりを一周する

二〇一四年十一月十四日 「マイミクの方のブックレビューで見つけた、ぼくの大好きな詩句。」

マイミクの方のブックレビューで見つけた、ぼくの大好きな詩句。

Jean Cocteau

「赤い包み」
という詩にある詩句

Je suis un mensonge qui dit toujours la vérité.
(ぼくはいつも本当の事を言う嘘つきだ)

原文を知らなかったので
とてもうれしい。
フランス語が読めないので
語音が楽しめないのだけれど。

あるサイトがあって
そこは英語で、コクトーの言葉が書いてあった。
上の詩句は

I am a lie who always speaks the truth.

でした。
ふつうやね、笑。
でも、lie を受けるのが who なんて、意外やわ。
へんなとこで感心してしまう、笑。

すると、マイミクの剛くんからコメントが

はじめてlieを習ったとき、
英語でこのことばを人に使うと、
ものすごい中傷になるので
日本語のように使ってはいけないといわれた記憶があります。
ジーニアスにも、
かつてはこのことばを使われたら、
決闘を申し込むほどだったとありました。

mensonge は〈嘘つき〉ではなく「嘘」

qui は英語でいうところの「who」ですから
「嘘」が人間のように修飾されているみたいです。

日本語では訳しづらいニュアンスですね。

ぼくのお返事

文法上は、擬人法的な扱われ方で
語意上は、擬人法的に訳したらダメってことね。
堀口大學さんの訳文って
たしか
「わたしとは真実を告げる偽りである。」
って訳していたような記憶があります。
いま
ネットで調べました。

ぼくという人間は虚偽だ、
真実を告げる虚偽だ。 (堀口大学訳)

たしかに、こうでしたね。
しかし、つぎのように訳しておられる方もおられますね。

「ぼくはつねに真実を語る嘘つきだ。」

ジャン・コクトー「赤い包み」末尾 1927 『オペラ』収録

ううううん。
「嘘つき」という訳には抵抗があるなあ。
堀口さんの訳が耳にこびりついてるからかなあ。
まあ、単なるメタファーなんやろうけど。
たしかに、微妙なメタファー。
そうだなあ。
たとえば
名詞の ruin なんてのは、ひとには使わない単語だけど
使うとしても、one’s ruin って感じでだろうけど
He was a ruin.

彼は廃墟だった。
彼は破滅だった。
ってメタファーとして使えるってことやね。
たしかに、詩的な感じがするね。

すると、また剛くんからコメントが

嘘そのものってことね。
たんに
不定冠詞の un
数形容詞の un として
「一つの」
「一個の」
と、つけて訳しても、カッコいいかもね。

すると、ぼくがブックレビューで右の言葉を見つけた
当のマイミクのしーやさんからコメントが

そう、嘘つきではなく、正しくは、嘘なのだけれど
詩集ではなく、絵で知ったの
13,Novembre 1934
とあるので、詩集のほうが、先ね
挿絵として描かれたものなのでしょうか
いま、図録がすぐ手元にみつからなくて、あいまい
そう、オペラで括られて、展示されていた気もする
そのための作品だったかもしれない
おとこのこの顔が、描いてあったから
「嘘つき」と勝手に訳した嘘つきです
ちなみにその絵画のほうの英語訳は

I am a lie that always tells the truth 

でした。

ぼくのお返事

that のほうが自然な感じがしますね。

「嘘つき」と訳されてあるものもありますね。
といいますか、いまネットで調べたら
堀口大學さんの訳以外、みんな、「嘘つき」になっています。
不思議!

Comprenne qui pourra:
 Je suis un mensonge qui dit toujours la vérité.

 わかる人にはわかって欲しい、
 「ぼくはつねに真実を語る嘘つきだ」ということを。 (コクトー「赤い包み」 1927 )

どっちのほうがいいかは、もしかしたら好みによるのかもしれないですね。

二〇一四年十一月十五日 「重力」

鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで
机が同じ向きに90度回転したら
鉛筆は机の上で静止したままだ
鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで
机が同じ向きに90度回転し
それと同じ速さで建物が同じ向きで90度回転したら
鉛筆は机の上を逆向きに転がり落ちる
鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで
机が同じ向きに90度回転し
それと同じ速さで建物が机と同じ向きで90度回転し
それと同じ速さで地面が机と同じ向きで90度回転すると
鉛筆は机の上を逆向きに転がり落ち
机の下を転がり
机の脚元から上昇する
鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで
机が逆向きに90度回転したら
鉛筆は倍速で転がり落ち
机の下を転がる
鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで
机が同じ向きに90度回転し
それと同じ速さで建物が机と逆向きに90度回転すると
鉛筆は机の上から転がり落ちる
鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで
机が同じ向きに90度回転し
それと同じ速さで建物が机と逆向きに90度回転し
それと同じ速さで地面が建物と同じ向きに90度回転すると
鉛筆は机の上に静止したままだ

二〇一四年十一月十六日 「本のうんこ」

 本がうんこをするとしたら、自分より小さい本をうんこにして出すんやろうか。それとも、印刷された文字をうんこにして出すんやろうか。まあ、余白の紙をうんこにはしないだろうけれど。おなかをくだしてたら、文字がシャーって出てきたりして。本の出す固いうんこって文字がギューってからまってそう。

二〇一四年十一月十七日 「本のイメージ」

 本のイメージって、鳥かな。魚っぽい形もしてるけど。虫じゃないだろし、猿や犬とも違ってっぽい。やっぱ、鳥かな。鳥は卵だし、本も卵から生まれるのかもしれない。そしたら本が先か卵が先かって話になるのかな。鳥かごのなかの止まり木に小さな本がちょこんと腰かけて、足をぶらぶらさせてる姿が目に浮かぶ。

二〇一四年十一月十八日 「本の料理」

 本を料理する。煮たり、焼いたりするのもいいけど、サンドイッチもいいかな。細く切って、パスタにもできるし、厚く切って、おでんの具材にもいいかもしれない。ピザの生地にも使えるかな。でも、本って、さしみがいちばんおいしかったりして。和・洋・中華、なんにでも使える具材だね。

二〇一四年十一月十九日 「フューチャー・イズ・ワイルド」

 塾の帰りに、五条堀川のブックオフで、『フューチャー・イズ・ワイルド』という本を買った。200000000年後の地球に生息しているかもしれない生物を予測してCGにした本。とてもきれい。108円。きのうも見たのだけれど、買わなかった。でも、気になって、きょう、あるかなと思って行った。200000000年後の世界なんて、関係ないじゃん、とか、きのうは思ってたのだけれど、きょう、通勤電車のなかで、5000000年後の風景とか、100000000年後の風景とか考えてたら、あ、参考になるかな~と思って、あれ買わなきゃと思ったのだった。氷結した地上で、畳のうえに坐って、おかきをパリパリ食べてるぼくとか、焼けるような日差しのなか、ジャングルのなかで、そばでは巨獣が咆哮してるというのに、ヘッドフォンでゴキゲンな音楽聴きながら、友だちとピンポンしてるぼくとか、思い浮かべていたのだった。

二〇一四年十一月二十日 「ラルース 世界ことわざ名言辞典を読んで」

二兎を追うものは三兔を得る。
証拠より論。
我がふり見て人のふり直せ。
一方美人。
皿を食らわば毒まで。
仇を恩で返す。
三度目の掃除機。
あらゆる善いことをした人でも、わたしに悪いことをした人は悪人である。
金銭は人の尊敬よりも確かな財産である。

二〇一四年十一月二十一日 「円筒形のパパ」

ぼくが授業をしていると
円筒形のパパが
教室の真ん中に現われた
円筒形のパパは
くるくる回転していて
ぼくは授業中なので
驚いた顔をしてみせるわけにもいかず
黒板に向かって
複雑な因数分解の解法について書き出した
式を書き終わったところで振り返ると
やっぱり円筒形のパパは
教室の真ん中で
くるくる回転していて
ぼくは生徒がノートをとり終わるのを待つふりをしながら
生徒の机と宙に浮かんだ円筒形のパパに
交互に目をやった
ほとんどの生徒のペンの動きがとまったことを確かめると
黒板に向かって式の解説をはじめた
黒板をみるときに
ちらっと目の端でとらえた円筒形のパパは
やっぱりくるくる回転していて
生徒といっしょに
せめて
じっとして
こっちを見ていて欲しいな
と思った

二〇一四年十一月二十二日 「パパ」

 父親には恨みごとしかないと思っていたのだが、ひとつだけ、感謝していることがあった。ぼくの知るかぎり、一生のあいだ働かずに生きていた父親の趣味が文学や芸術であったことだ。映画のスティール写真を写真屋に言いつけて1メートル×2メートルくらいの大きなものにして寝室に飾っていたり、しかもそれは外国人俳優のヌード写真だった。たしか、『化石の森』という映画で、レイモンド・ラブロックがベッドのうえで、背中とお尻の半分を露出している白黒写真だった。書斎にはほとんどありとあらゆる本があった。ほとんど外国のもので、なかにはゲイ雑誌もあった。薔薇族やアドンやさぶやムルムといった日本の代表的なゲイ雑誌があった。生涯において、女性の愛人しか持たなかった父親だったが、精神的には、男性にも魅かれていたのかもしれない。あるいは、単なる文芸上の趣味だったのか。継母は、女の愛人には厳しかったが、ゲイ雑誌は、単なる趣味だったと思っていたようだ。ぼくが父親の本棚にあるゲイ雑誌について尋ねると、「単なる趣味でしょ?」と言って笑っていたから。ぼくが翻訳小説に親しんでいるのは、父親の影響だろう。音楽の趣味も、父親の趣味と同じだ。ポップス、ジャズ、ロック、ラテンといったものが好きだった。サンバやボサノバをよく錦市場のところにあった「木下」という喫茶店で聴いた。家でも聴いていたが、父親は、その喫茶店のアイスコーヒーが好きで、ぼくもよく連れて行ってもらった。「ここのママはレズビアン。」と言っていた。大学生のときに、「ママって、レズビアンなの?」って訊いたら、「よく言われますけど、レズビアンじゃありません。」と言っていた。どうだったんだろう。そのお店にはレズビアンって感じの女性や、見た目あきらかにゲイのカップルがよく行ってたから。父親は、そんな雰囲気が好きだったのだろう。父親の頭のなかでは、ゲイやレズビアンは、人生をちょっぴり違った味わいにしてくれるスパイスのようなものだったのだろうかと、いまとなってはそう思う。靴とかもすべてオーダーメイドのおしゃれな父親だった。錦市場のその喫茶店「木下」で飲んだアイスコーヒーはほんとにおいしかった。漏斗状のプラスティック容器を使って、アイスコーヒー用に焙煎されたコーヒー豆の粉を紙フィルターに入れ、氷をたっぷり入れたグラスのうえにそれを置いて、細く湯を注いでいったのだった。とても香り高くて、行くたびに、その香りのよさに目を見張ったものだった。その店のママもいまは亡くなり、その店もないらしい。ぼくも祇園に住んでいたころは、父親とよく行ったものだったが、家を出てからは、下鴨に住んでいたので、錦市場には足を運ばなくなった。きょう、武田先生に、錦市場のなかにある居酒屋さんに連れて行ってもらったのだ。以前は、そんな居酒屋などなかったのであるが、魚介類を目のまえで網焼きして出してくれる店が何軒もできていたのだった。錦市場の様子が、30年前とは、まったく変わっていることに驚かされたが、驚くことは何もないと、いまこの文章を書きながら、ふと思った。30年もたてば変わって当たり前だ。父親によく連れて行ってもらった喫茶店の「木下」もとっくになくなっていた。

二〇一四年十一月二十三日 「アスペルガー」

 いま塾から帰ったんだけど、帰りに五条通りの北側を歩いていると、向かい側から素朴系の口髭ありのかわいい男の子が大きなバッグを背負いながらやってきたんだけど、かわいいなあと思って顔をみたら、近づいてきたから、ええっと思って避けて急ぎ足で通り過ぎたんだけど、振り返ったらふつうに歩いてたんで、べつにヨッパでもなく、なんだか、損した気分。声をかければよかった~。こんなんばっかし。数年前には、電車のなかで、かわいいなあと思って顔を見たら、にこって微笑まれて、びっくりして、見なかったふりして、場所をかわったんだけど、それもあとでは損した気分。もっと積極的にせなあかんのになあと思いつつ、53才。もう一生、出会いはあらへん感じ、笑。「神々が味わいたいのは、動物の脂身と骨ではなく、人間の苦しみなのよ。」(マーガレット・アトウッド『ペネロピアド』XVI、鴻巣友季子訳、141ページ)そいえば、好きだった子に「言葉とちゃうやろ、好きやったら抱けや。」と言われたのだけれど、「言葉やと思うけど。」みたいなことを言ったような記憶がある。言語化されていないことがらについて解する能力が欠如していたのだと思う。アスペルガーの特徴の一つである。いまでも、そういうところがあるぼくである。

二〇一四年十一月二十四日 「詩の完全立方体」

この詩篇は
一辺が一行の詩行からなる立方体である
一行は一千文字からできている
八個の頂点には句点が置かれている
上面と下面に正方形がくるように置き
上面の正方形の各頂点を反時計回りにABCD
Aの下にEがくるようにして
下面の正方形の各頂点に反時計回りにEFGH
と仮に名づける
辺AE、BF、CG、DHの各中点を通る平面で
この立方体を切断すると
切断面の一方は男となり
もう一方は女となる
平面ABGHでこの立方体を切断すると
切断面の一方は夜となり
もう一方は昼となる
二つの頂点B、Hを通る平面で
体積の等しい四角すいを二つつくる平面で切断すると
切断面の一方は神の存在を証し
もう一方は神の不在を証す
このように
この立方体を分割する際に
同じ体積の立体が二つできるように切断すると
相反する事物・事象が切断面にできる

二〇一四年十一月二十五日 「小鳥」

猫の口のなかで
噛み砕かれた小鳥の死骸が
元の姿にもどって
猫の口から出て
地上から木の上にもどった

小鳥は
幾日も幾日も
平穏に暮らしていた

河川敷の
ベンチの後ろの
藪のなかに捨てられていた
錆びた鳥籠が
もとの金属光沢のある
きれいな姿になっていった

小鳥が
子供が待っている
鳥籠のなかに背中から入っていった
子供は鳥籠の扉を閉めて
後退りながら
鳥と鳥籠を家へ持ち帰った

二〇一四年十一月二十六日 「卵病」

卵の一部が
人間の顔になる病気がはやっているそうだ
大陸のほうから
海岸線のほうに向かって
一挙に感染区域が拡がっていったそうだ
きのう
冷蔵庫を開けると
卵のケースに入れておいた卵が
みんな
人間の顔になっていた
すぐにぜんぶ捨てたけど
一個、割ってしまったようで
きゃっ
という、小さな叫び声を耳にした気がした
こわくて
それから残りの卵はそっとおいて捨てた

二〇一四年十一月二十七日 「素数と俳句/素数と短歌」

 ふと思ったのだけれど、俳句の5・7・5も、短歌の5・7・5・7・7も、音節数の17と31って、両方とも素数だよね。ただそれだけだけど。17と31の数字を入れ替えた71と13も素数だった。べつに、これまた、ただそれだけだけど。

二〇一四年十一月二十八日 「言葉でできた犬」

言葉でできた犬を
ぼくも飼ってる
仕事から帰ると
言葉が
わっと走りよってきてくれる
言葉といっしょに河原を散歩するのも気持ちいい
公園でも言葉といっしょに夕日を見ながら
ジーンとすることもある
いまも隣で
わけわからないながらも
ぼくといっしょに
言葉が
このパソコンの画面を
眺めている

二〇一四年十一月二十九日 「ペリコロール。」

ぺリコロールだったかな
お豆さん入りのパンを食べてたら
けさ、奥歯のブリッジがバキッ
って、割れた。
きょう一日、食べ物に気をつけないと
いや、食べ方に気をつけないと。
左奥歯のブリッジが割れたので
右奥歯で食べないとね。
パンのなかに入ってた豆が硬くて
ふつうは柔らかいんだけど
生地の表面近くにあった豆だったから
焼き上げたときに乾燥して硬かったのね。
ひゃ~
びっくらこきました。
でも、悪いことのあとには
いいことがあると思うからいいかな。
明日、歯医者に行こうっと。
午後から、もと彼とお食事の約束。

二〇一四年十一月三十日 「小子化」

 きょう、ネットのニュースを見てびっくらこいた。小子化だって。不況のせいで、子どもに栄養が行き渡らないで、だんだん子どもの大きさが小さくなっていってるらしい。このまま不況がつづくと、21世紀の終わりには、5歳の子どもの身長が5cm。15歳の子どもが15cmになると予測されている。

二〇一四年十一月三十一日 「月間優良作品・次点佳作」

今月投稿された詩のなかで
もっとも驚かされたのは
吉田 誠さんの『吉田 誠参上!』でした
目にした瞬間に凍りつきました
高校3年生
体育会系男子
身長176センチメートル
体重67キログラムの吉田さんが
猛吹雪とともに
画面のなかから躍り出てきたからです
まあ、それからの一時間というもの
猛吹雪のなかで
ずっとしゃべりっぱなし
吉田 誠さんの饒舌さには呆れ果てました
というのも
吉田 誠さんは留学先の火星で整形手術をしたらしく
二つの口で同時に違う内容のことを
ずっとしゃべりつづけていたのですもの
しゃべり終わると
吉田 誠さんはすっと目の前から姿を消してしまいましたが
画面のなかをのぞいても何も出てこず
幻でも見たのかしら、などと思ってしまいました
(後で留学先の火星に帰られたことがわかりました)
今月、一番、驚かされたのは
この吉田 誠さんの『吉田 誠参上!』でしたが
つぎに驚かされたのが
吉田 満さんたちの『手』でした
画面を見ると
ぐにゅっと手がでてきて
ぼくの手をパチンってしばいたのです
それも一本の手ではなく
何十本もの手で

びっくりして画面を見ると
パソコンのスピーカーから「ナンじゃ、ワレッ」という怒鳴り声の合唱が聞こえたので
蹴りつけて踏んづけてやりました
ぎゅっ、ぎゅって踏んづけてやると
吉田 満さんたちの手はおとなしくなりました
つぎに驚かされたのは
吉田和樹さんの『ぺんぺん草』でした
画面を見ると
床一面にぺんぺん草が生えて
ぼくの部屋が河川敷の見慣れた景色になりました
毒気の強い作品が多いなかに
このような凡庸な作品もときにはよいのではと
みなさんも、こころ癒されてくださいね
発想は貧弱ですが、想念を現実化する確かな描写力には目を瞠りました
以上の3作品を、今月の優良作品に選びました。
いつものように
つぎに、次点佳作の方のお名前と作品名をあげておきますね

次点佳作

吉田めぐみ「フランケンシュタインとメグ・ライアン」
吉田裕哉「戦場の花嫁 あるいは 戦場は花嫁か?」
吉田ところてん「イカニモ・ガッツリ・発展場」
吉田ぼこぼこ「昼ご飯を食べるのを忘れて」

 

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