詩の日めくり 二〇一四年十月一日─三十一日

By   2015-10-29

詩の日めくり 二〇一四年十月一日─三十一日

 

田中宏輔

 

もくじ。

二〇一四年十月一日 「ネクラーソフ『だれにロシアは住みよいか』大原恒一訳」

血糖値が高くて
ブタのように太ったぼくは
運動しなきゃならない。
それで
自転車に乗って
遠くのブックオフにまで行かなきゃいけない。

東寺のブックオフに行ったら
ネクラーソフの詩集が
108円のコーナーにあって
パラ読みしていたら
「ロシアでは あなたたちもよく知ってのとおり
 だまって頭を下げることを
 だれにも禁じてはいません!」
って、あって
目にとまった。
これって、
どこかで
近い言い回しを見た記憶があって
うううむ
と思ったのだけれど
詩集は
二段組で
内容は
農奴というのかな
百姓の苦しさと
百姓のずるさと
貴族の虚栄と
貴族の没落の予感みたいなこととか
宗教的なところとかばっかで
退屈な詩集だなあって思ってしまって
さっき読んだとこ
どこにあるかな
あれは、よかったなって思って
ページをペラペラめくって
さがした。
あると思ってた
どこかのページの左下の段の左側を見ていった。
さがしたら
あると思ったんだけど
それがなくって
二回
ペラペラしたんだけど
あると思ってた
どこかのページの左下の段の左側にはなくって
記憶違いかなって思って
まあ、よくあることなんだけど
こんどは
左のページの上の段の左側を見ながら
ペラペラめくっていたら
あった。

もう一度
見る。
「ロシアでは あなたたちもよく知ってのとおり
 だまって頭を下げることを
 だれにも禁じてはいません!」
これ
覚えちゃおう
って思って
この部分だけに
108円払うのも
なんだかなあって思ってね。

何度か
こころのなかで復唱して
CDやDVDのある一階に降りて
レインのDVDを買おうかどうか迷ってたら
うんこがしたくなって
帰って
うんこをしようと思って
いったんブックオフから出て
自転車に乗って
帰りかけたんだけど
東寺の前を通り過ぎて
短い交差点を渡って
なんか、たこ焼き屋だったかな
そこの前まできたときくらいに
でも
ネクラーソフの言葉から
そだ。
ふつうのことを禁じるって
たしか
レイナルド・アレナスが書いてたぞ。
キューバでは
たとえ
同性同士でも
バスのなかや
喫茶店のなかでも
見つめ合ってはいけないって
同性愛者を差別する
処罰する法律があったって
カストロがつくった
ゲイ差別の法律があったって
そいえば
厳格なイスラム教の国では
同性愛者だってわかったら
拷問死に近い
二時間にもおよぶ
石打の刑という死刑制度があったんだ。
これ
何ヶ月かまえに
ニュースになってて
「宗教が違うんだから、
 同性愛者が処罰されても仕方がないでしょう」
みたいな発言をしてたバカがいて
めっちゃ腹が立った記憶があったから
ブタは自転車の向きを変えて
たこ焼き屋の前で
キュルルンッ
と自転車をまるごと反転させて
東寺のブックオフへと戻ったのであった。
二階に行って
108円の棚のところに行くと
白髪のジジイがいて
もしや
吾が輩の大切な彼女をば
と思ったのだけれど
ネクラーソフの詩集の
表紙のなかにいた女性は無事で
ぼくの腕のなかに
へなへな~
と、もたれかかってきたのであった。
彼女は
たぶん、ただの百姓娘なのだろうけれど
とても美しい女性であった。
可憐と言ってもよかった。
その手はゴツゴツしてるみたいだけどね。
そして
その目は
人間は生きることの厳しさに耐えなければならない
ということを身をもって知っている者だけが持つことのできる
生命の輝きを放っていた。
ブタは彼女を胸に抱き
階段を下りて
一階で勘定をすますと
全ゴムチューブの
ノーパンクの
重たい自転車を
全速力で
ぶっ飛ばしたのであった。
それにしても
イスラム圏じゃ
同性愛者は殺されても仕方ないじゃない
って書いてたバカのことは許せん。
まあ、バカには、なにを言っても
なにか言ったら
こちらもバカになるだけだし
ムダなんだけどね。
人間には
バカとカバがいてね。
「晴れ、ときどき殺人」
みたいに
ひとが簡単に殺人者になることがあるように
バカがカバになることもあれば
カバがバカになることもあるんだけど
ずっとカバがカバだってこともないしね
バカがバカだってこともないしね
でも、どちらかというと
ぼくはバカよりカバがいいなあ。

ぼくはブタだったんだ~。
まっ、
でも、これは
観察者側の意見でね。

うんこするの忘れてた。
ところで
途中で寄った
フレスコから出たときに
スーツ姿の
まあまあかわいいおデブの男の子が
図面かな
書類をひらいて見ながら
歩いていたの。
薄緑色の作業着みたいなツナギの制服着て。
ぼくはフレスコから帰るために自転車を乗ったとこだったか
乗ろうとしてる直前で
彼のあそこんとこに目がいっちゃった。
だってチンポコ
完全にボッキさせてたんだもの。
すっごくかたそうで
むかって左の上側に突き出てた。
ええっ?
って思った。
図面の入った筒を握ってて
ボッキしてたのかな。
持ち方がエロかったもの。
かわいかった。
セルの黒メガネの彼。
右利きだよね。
ついて行こうかなって
いっしゅん思ったけど
それって、おかしいひとに思われるから
やめた。
部屋に帰って
フレスコで買った
麒麟・淡麗〈生〉を飲みながら
ネクラーソフの詩集の表紙のなかにいる
彼女の目の先にある
ロシアの平原に
ぼくも目を向けた。

二〇一四年十月二日 「みにくい卵の子」

みにくい卵の子は
ほんとにみにくかったから
親鳥は
そのみにくい卵があることに気がつかなかった
みにくい卵の子は
かえらずに
くさっちゃった

二〇一四年十月三日 「雲」

さいきん、よく空を見上げます。
雲のかたちを覚えていられないのに、
形を見て、うつくしいと思ってしまいます。
覚えていることができるものだけが、
美しいのではないのですね。

二〇一四年十月四日 「田ごとのぼく」

たしかに
田んぼ
一つ一つが
月を映していた。
歩きながら
ときどき月を見上げながら
学校から遅く帰ったとき
月も田んぼの水面で
少し移動して
でも
つぎの田んぼのそばに行くと
すでにつぎの田んぼに移動していて
ああ
田ごとの月って
このことかって思った。
けれど
ぼくの姿だって
ぼくが移動すれば
つぎつぎ違う田んぼに映ってるんだから
ぼくだって
田ごとのぼくだろう。
ぼくが
田んぼから月ほどにも遠くいる必要はないんだね。
月ほどに遠く
月のそばにいると
月といっしょに
田んぼに光を投げかけているのかもしれない。
ぼくも月のように
光り輝いてるはずだから。
違うかな?
どだろ。

二〇一四年十月五日 「恋人たち」

「宇宙人みたい。」
「えっ?」
ぼくは、えいちゃんの顔をさかさまに見て
そう言った。
「目を見てみて。」
「ほんまや、こわっ!」
「まるで人間ちゃうみたいやね。」
よく映像で
恋人たちが
お互いの顔をさかさに見てる
男の子が膝まくらしてる彼女の顔をのぞき込んでたり
女の子が膝まくらしてる彼氏の顔をのぞき込んでたりしてるけど
まっさかさまに見たら
まるで宇宙人みたい
「ねっ、目をパチパチしてみて。
 もっと宇宙人みたいになる。」
「ほんまや!」
もっと宇宙人!
ふたりで爆笑した。
数年前のことだった。
もうふたりのあいだにセックスもキスもなくなってた。
ちょっとした、おさわりぐらいかな。
「やめろよ。
 きっしょいなあ。」
「なんでや?
 恋人ちゃうん? ぼくら。」
「もう、恋人ちゃうで。」
「えっ?
 ほんま?」
「うそやで。」
うそやなかった。
それでも、ぼくは
i think of you.
i cannot stop thinking of you.
なんもなくなってから
1年以上も
恋人やと思っとった。

二〇一四年十月六日 「それぞれの世界」

ぼくたちは
前足をそろえて
テーブルの上に置いて
口をモグモグさせながら
店のなかの牧草を見ていた。
ふと、彼女は
すりばち状のきゅう歯を動かすのをやめ
テーブルのうえにだら~りとよだれを落としながら
モーと鳴いた。
「もう?」
「もう。」
「もう?」
「もう!」
となりのテーブルでは
別のカップルが
コケー、コココココココ
コケーっと鳴き合っていた。
ぼくたちは
前足をおろして
牧草地から
街のなかへと
となりのカップルも
おとなしくなって
えさ場から
街のなかへと
それぞれの街のなかに戻って行った。

二〇一四年十月七日 「きょとん」

おとんでも
おかんでもなく
きょとん
きょとん
と呼んだら
返事してくれる
でも
きょとん
と目を合わせたら
きょとん
としなくちゃいけないのね
きょとん
ちょっとを大きくあけて
でへへ えへでもなく
でへっでもなく
でへへ
でへへと言ったら
でへとしなくちゃいけないのね
でへへ
でへへへれ~
でへへ
って感じかな
柴田、おまえもか!
つづく

二〇一四年十月八日 「幽霊卵」

冷蔵庫の卵がなくなってたと思ってたら
いつの間にか
また1パック
まっさらの卵があった
安くなると
ついつい買ってくる癖があって
最近ぼけてきたから
いつ買ったのかもわからなくて
困ったわ

二〇一四年十月九日 「部屋」

股ずれを起こしたドアノブ。
ため息をつく鍵穴。
わたしを中心にぐるっと回転する部屋
鍵束から外れた1本の鍵がくすって笑う。
カーテンの隙間から滑り込む斜光のなかを
浮遊する無数の鍵穴たちと鍵たち
部屋が
祈る形をとりながら
わたしに凝縮する。

二〇一四年十月十日 「きょうも日知庵でヨッパ」

でも
なんだかむかついて

帰りは
西院の「印」という立ち飲み屋に。
会計、間違われたけれど
250円の間違いだから
何も言わずに帰ったけど。
帰りに
近所の大國屋に
いや
そだ
このあいだ
気がついたけど
大國屋の名前が変わってた。
「お多福」に。
ひゃ~
「きょうは尾崎を聞くと泣いてしまうかもしれない。
◎原付をパクられた。」
って
「印」の
「きょうの一言」
ってところに書いてあって
ちっちゃな黒板ね

いいなあって思ったの。
書いたのは
たぶん、アキラくんていうデブの男の子
こないだ
バカな客のひとりに
会話がヘタって言われてたけど
会話なんて
どうでもいいんだよ
かわいければさ、笑。
あいきょうさ
人生なんて
けせらせら
なんだから。
「きょうの一言」
そういえば
仕事帰りに
興戸の駅で
学生の女の子たちがしゃべっている言葉で
「あとは鳩バス」
って聞こえたんだけど
これって
聞き間違いだよね。
ぜったい。
ここ2、3日のメモを使って
詩句を考えた。
more than this
これ以上
もう、これ以上
須磨の源氏だった。
詩では
うつくしい幻想を持つことはできない。
詩が持つことのできるものは
なまなましい現実だけだ。
詩は息を与える。
死者にさえ、息を与えるのだ。
逃げ道はない。
生きている限りはね。
勝ちゃん
胸が張り裂けちゃうよ。
龍は夢で
あとは鳩バス。

二〇一四年十月十一日 「音」

その音は
テーブルの上からころげ落ちると
部屋の隅にむかって走り
いったん立ちどまって
ブンとふくれると
大きな音になって
部屋の隅から隅へところがりはじめ
どんどん大きくなって
頭ぐらいの大きさになって
ぼくの顔にむかって
飛びかかってきた

二〇一四年十月十二日 「音」

左手から右手へ
右手から左手に音をうつす
それを繰り返すと
やがて
音のほうから移動する
右手のうえにあった音が
左手の手のひらをのばすと
右手の手のひらのうえから
左手の手のひらのうえに移動する
ふたつの手を離したり
近づけたりして
音が移動するさまを楽しむ
友だちに
ほらと言って音をわたすと
友だちの手のひらのうえで
音が移動する
ぼくと友だちの手のひらのうえで
音が移動する
ぼくたちが手をいろいろ動かして
音と遊んでいると
ほかのひとたちも
ぼくたちといっしょに
手のひらをひろげて
音と戯れる
音も
たくさんのひとたちの手のひらのうえを移動する
みんな夢中になって
音と戯れる
音もおもしろがって
たくさんのひとたちの手のひらのうえを移動する
驚きと笑いに満ちた顔たち
音と同じようにはずむ息と息
たったひとつの音と
ただぼくたちの手のひらがあるだけなのに

二〇一四年十月十三日 「ある青年の日記を読んで」

その青年は
何年か前にメールだけのやりとりをしたことがあって
それで、顔を覚えていたので彼の日記を見てたら

仕事でいらいらしたことがあって
上司とけんかして
それでまたいらいらして
せっかく恋人といっしょに
出かけたのに
道行くサラリーマンに
「オラッ」とか言って
からんだそうで
それで恋人になんか言われて
逆切れしたそうで
でも、それを反省したみたいで
「あと20日で一年大事でかわいい人なのに
こんな男でごめんなさいお母さん大好き」
という言葉で日記は結んであって

「あと20日で一年大事でかわいい人なのに
こんな男でごめんなさいお母さん大好き」

という言葉に、こころ動かされて
ジーンとしてしまった

いま付き合ってる恋人とも
そういえば、あと一ヶ月で1年だよねとか
もうじき2年だよ
とかとか言っていた時期があったのだった

きょう、恋人に
朝、時間があるから、顔を見に行こうかな
とメールしたら
用事ででかけてる、との返事

最近、メールや電話したら、いっつも用事

しかも、きょう電話したら
その電話もう使われていないって電気の女の声が言った

「あと20日で一年大事でかわいい人なのに
こんな男でごめんなさいお母さん大好き」

彼の日記
なぜだかこころ動かされる言葉がいっぱいで

ある日の日記は、こういう言葉で終わっていた
さまざまな単行本や文庫本、それに小説現代という雑誌など
読んだ本を列記したあと

「その時は彼によろしくとか僕の彼女を紹介しますとか
あなたのキスを探しましょうとか、不思議なタイトルだな… 」

彼の素直な若さが、うつくしい。
最後に、彼のある日の日記の一節をひいておこう
ぼくには、彼がいま青春のど真ん中にいて、
とてもうつくしいと思ったのだった

「「何でもないような事が幸せだったと思う」とあるけど
まさにそうだと思った。金ないとか、仕事疲れたとか言ってたけど、
そんなのは問題じゃないと。何より大事なかわいい恋人と、コーラとセッターと
健康な体、仕事があればそれだけで幸せなんだとしゅんと思った!
もう悲しませることなくしっかり生活しようと強く思った。」

「何より大事なかわいい恋人と、コーラとセッターと
健康な体、仕事があればそれだけで幸せなんだとしゅんと思った!」

「それだけで幸せなんだとしゅんと思った!」

こんなに、こころの現われてる言葉、ひさしぶりに遭遇した。

二〇一四年十月十四日 「日付のないメモ」

京大のエイジくんに関するメモ。

ぼくたちは、いっしょに並んで歩いて帰った。
きみは、自転車を押しながら。
夜だった。
ぼくは下鴨に住んでいて、きみは、近くに住んでいると言っていた。
ぼくは30代で
きみは大学生だった。
高知大で3年まで数学を勉強していたのであった。
従兄弟が東大であることを自慢げにしていたので
3年で高知大の数学科をやめて
京大を受験しなおして
京大の建築科に入学したのであった。
親が建設会社の社長だったこともあって。
だから
きみと出会ったときの
きみの年齢は28だったのだった。
きみは京大の4回生だった。
ぼくたちは、一年近く毎日のように会っていた。
ぼくが仕事から帰り
きみが、ぼくの部屋に来て
ふたりで晩ご飯を食べ
夜になって
ぼくが眠りにつくまで
寝る直前まで、きみは部屋にいた。
泊まったのは一度だけ。
さいごに、きみが、ぼくの部屋に訪れた日。
ピンポンとチャイムが鳴って、ドアを開けようとすると
きみは、全身の体重をかけてドアを押して、開けさせないようにした
雪の積った日の夜に
真夜中に
「雪合戦しようや。」と言って
ぼくのアパートの下で
積った雪を丸めて投げ合った
真夜中の2時、3時ころのことは
ぼくは一生忘れない。
だれもいない道端で
明るい月の下
白い雪を丸めては
放り投げて
顔にぶつけようとして
お互い、一生懸命だった。
そのときのエイジくんの表情と笑い声は
ぼくには、一生の宝物だ。
毎晩のように押し合ったドア。
毎晩、なにかを忘れては
「とりにきた」と言って笑っていたきみ。
毎晩、
「もう二度ときいひんからな」
と言っていたきみ。
あの丸められた雪つぶては
いまもまだそこに
下鴨の明るい月の下にあるのだろう。
あの寒い日の真夜中に。
子どものようにはしゃいでいた
ぼくたち二人の姿とともに。

二〇一四年十月十五日 「風の手と、波の足。」

風の手が
ぼくをまるめて
ほうりなげる。
風の手が
ぼくをまるめて
別の風の手と
キャッチボールしてる。
風の手と風の手が
ぼくをキャッチボールしてる。

波の足が
ぼくをけりつける。
すると
違う方向から打ち寄せる波の足が
ぼくをけり返す。
波の足と波の足が
ぼくをけり合う。
波の足と波の足がサッカーしてる。

ぼくを静かに置いて眺めることなどないのだろうか。
なにものも
ぼくを静かに置いて眺めてはくれそうにない。
生きているかぎり
ぼくはほうり投げられ
けりまくられなければならない。
それでこわれるぼくではないけれど
それでこわれるぼくではないけれど
それでよりつよくなるぼくだけれど
それでよりつよくなるぼくだけれど
生きているかぎり
ぼくはほうり投げられ
けりまくられなければならない。

二〇一四年十月十六日 「卵」

万里の長城の城壁のてっぺんに
卵が一つ置かれている。
卵はとがったほうをうえに立てて置かれている。
卵の上に蝶がとまる。
卵は微塵も動かなかった。
しばらくして
蝶が卵のうえから飛び立った。
すると
万里の長城が
ことごとく
つぎつぎと崩れ去っていった。
しかし
卵はあった場所にとどまったまま
宙に浮いたまま
微塵も動かなかった。

二〇一四年十月十七日 「ウィリアム・バロウズ」

下鴨に住んでたころ
十年以上もむかしに知り合ったラグビー青年が
バロウズを好きだった。
本人は異性愛者のつもりだったのだろうけれど
感性はそうではなかったような気がする。
とてもよい詩を書く青年だった。
ユリイカや現代詩手帖に送るように言ったのだが
楽しみのためにだけ詩を読んだり書いたりする青年だった。
ぼくは20代後半
彼は二十歳そこそこだったかな。
ブラジル音楽を聴きながら
長い時間しゃべっていた日が
思い出された
バロウズ
甘美なところはいっさいない
すさまじい作品だけれど
バロウズを通して
青年の思い出は
きわめて甘美である
なにもかもが輝いていたのだ
まぶしく輝いていたのだ
彼の無蓋の微笑みと
その二つの瞳と

カウンターにこぼれた
グラスの露さえも

二〇一四年十月十八日 「ウィリアム・バロウズの贋作」

 本日のバロウズ到着本、6冊。なかとカヴァーのきれいなほうを保存用に。『ダッチ・シュルツ』は500円のもののほうがきれいなので、そちらを保存用に。『覚えていないときもある』も710円のもののほうがきれいなので、そちらを棚に飾るものにして。 きょうから通勤時は、レイ・ラッセルの『嘲笑う男』にした。ブラッドベリの『メランコリイの妙薬』読了したけど、なんか、いまいちやった。詩的かもしれないけれど、そのリリカルさが逆に話を胡散臭くさせていた。もっとストレートなほうが美しいのに、などと思った。
 学校から帰って、五条堀川のブックオフに行くと、ビアスの短編集『いのちの半ばに』(岩波文庫)が108円で売っていたので買ったんだけど、帰って本棚を見たら、『ビアス短編集』(岩波文庫)ってのがあって、それには、『いのちの半ばに』に入ってた7篇全部と、追加の8篇が入っていて、訳者は違うんだけど、持ってたほうのタイトルの目次を見ても、ぜんぜん思い出せなかった。ううううん。ちかく、新しく買った古いほうの訳のものを読んでみようかなって思った。
 おとつい、ネットで注文した本が、とても信じられないものだった。

裸の審判・世界発禁文学選書2期15 ウイリアム・バローズ 浪速書房 S43・新書・初版カバー・美本

 きょう到着してた。なんと、作者名、「ウイリヤム・バローズ」だった。「ア」と「ヤ」の一字違いね。まあ、大きい「イ」と、小さい「ィ」も違うけど。浪速書房の詐欺的な商法ですな。しかも、作者名のはずのウイリヤム・バローズが主人公でもあって、冒頭の3、4行目に、

 私、ウイリヤム・バローズは、パリのル・パリジャンヌ誌特派員として、このニューヨーク博覧会に行くことになった。

とあって、これもワラケルけど、最後のページには

 そしていざというときは、鞭という、柔らかい機械が二人を結びつけるだろう。いま、二人に聞こえるものは、路上にきしる、濡れたタイヤの連続音と、彼らの廻りに、うなりを上げている。雨の叫びだけであった。

とあるのである。「雨」の前の句点もおもしろいが、「鞭」を「柔らかい機械」というのは、もっとワラケル。ほかの文章のなかには「ランチ」という言葉もある、笑。翻訳した胡桃沢耕史さん(本に書かれている翻訳者名は清水正二郎さんだけど、胡桃沢さんのペンネームのひとつ)のイタズラやね。おもろいけど。パラパラとめくって読んだら、これって、サド侯爵の小説の剽窃だった。鞭が若い娘の背中やお尻に振り下ろされたり、喜びの殿堂の処刑室とか出てくる。はあ~あ、笑。この本を出版した浪速書房って、エロ本のシリーズを出してて、たとえば、

世界発禁文学選書 裸女クラブ 新書 浪速書房 ペトロ・アーノルド/清水正二郎訳 昭45
世界発禁文学選書 乳房の疼き 新書 浪速書房 マリヤ・ダフェノルス 清水正二郎・訳
世界発禁文学選書〈第2期 第11巻〉私のハンド・バッグの中の鞭(1968年)

 こんなタイトルのものだけど、戦後、出した本がつぎつぎに発禁になったらしいけれど、発禁の理由って、エロティックな内容じゃなくて、この「詐欺的商法」なんじゃないかな。
 で、いま、浪速書房のウィリアム・バローズの「やわらかい機械」を買おうかどうか迷っている。ヤフオクに入札しているのだけど、いま8000円で、内容は、山形訳のソフトマシーンのあとがきによると、このあいだ買ったウイリヤム・バローズと同じように、主人がウィリアム・バローズで、またまた女の子を鞭打つエロ小説らしい。 出品しているひとに、ほんとうにバロウズの翻訳かどうか訊いたら、答えられないという答えが返ってきた。贋物だと思う。あ、この贋物ってのは、ウィリアム・バロウズが著者ではないということなんだけど、まあ、話の種に買ってもいいかなって思う。でも、8000円は高いな。キャンセルしてもいいって、出品者は言ってくれたのだけれど、贋物でも、おもしろいから買いたいのだけれど、8000円あれば、ほかに買える高い本もあるかなあとも思うし。あ、でもいま、とくに欲しい本はないんだけど。

ヤフオクでの質問

 小生の質問にお答えくださり、ありがとうございました。小生、ウィリアム・バロウズの熱狂的なファンで、『ソフトマシーン』の河出文庫版とペヨトル工房版の2冊の翻訳本を所有しております。ご出品なさっておられるご本の、最初の2行ばかりを、回答に書き写していただけますでしょうか。それで、本当に、ウィリアム・バロウズの『ソフトマシーン』の翻訳本かどうかわかりますので。小生は、本物の翻訳本でなくても、購入したいと思っておりますが、先に本物の翻訳本かどうかは、ぜひ知っておきたいと思っております。8000円という入札金額は、それを知る権利があるように思われますが、いかがでしょうか。よろしくお願い申し上げます。

 バロウズの『やわらかい機械』の本邦初訳と銘打たれた本に価値があると思って、最初に8000円の金額でオークションをはじめさせているのだから、ある程度の知識がある人物だと思う。その翻訳が本物かどうか、本文を見ればすぐにわかるはずなのに、それを避けた回答をしてきたので、このような質問を再度したのだった。なにしろ浪速書房の本である。山形裕生さんの『ソフトマシーン』の訳本の後書きでは、それは冗談の部類の本だと思われると書かれている本である。

回答があった。

 第一章ニューヨークへの道 一九六四年から五年にかけての、ニューヨークの最大の話題は、ニューヨーク世界博覧会が開かれたことである。私、ウィリヤム・バローズは、パリのル・パリジャンヌ誌特派員として、このニューヨーク博覧会に行くことになった。

 ひえ~、これって、ウイリヤム・バローズの『裸の審判』の1~4行目と、まるっきりいっしょよ。完全な贋物だ。ああ、どうしよう。完全な贋物。ふざけた代物に、8000円。どうしよう。相手はキャンセルしていいと言ってた。ううううん。マニアだから買いたいと返事した。あ~あ、このあいだ買った『裸の審判』と中身がまったく同じ本に8000円。バカだなあ、ぼくは。いや~、バロウズのマニアなんだよね、ぼくは。しかし、この出品者、正直なひとだけど
 最初の設定金額を8000円にしてるのは、なんでやったのかなあ。バロウズのこと、あんまり知らなかったひとだったら、そんなバカ高い金額をつけないだろうしな。あ、知ってたら、そんなものをバロウズが書いてたとは思ってもいなかっただろうしなあ。 不思議。でも、完全に贋物でも、表紙にウィリアム・バローズって書いてあったら買っちゃうっていう、お馬鹿なマニアの気持ち、まだまだ持ち合わせているみたい。この浪速書房の本も、きっと、詐欺で摘発、本は発禁処分を受けたんだろうね。 ぼくはただのバロウズファンだったけど、思わぬ贋作の歴史を垣間見た。胡桃沢耕史さん、生活のためにしたことなんだろうね。
 ちなみに、あのあと、つぎの二つの質問をオークション出品者にしたけど、返事はなかった。

 お答えくださり、ありがとうございました。その訳本は贋物です。先日購入しました、浪速書房刊のウイリヤム・バローズ作、清水正二郎訳の「裸の審判」の第一章の3行目から4行目の文章とまるっきり同じです。本物のウィリアム・バロウズの作品には、そのような文章はありません。きっとその本の最後のページには、次の文章が終わりにあるのではないでしょうか。「そしていざというときは、鞭という、柔らかい機械が二人を結びつけるだろう。/いま、二人に聞こえるものは、路上にきしる、濡れたタイヤの連続音と、彼らの廻りに、うなりを上げている。雨の叫びだけであった。」 それでも、小生はマニアなので、購入したいと思っております。

 ちなみに、引用された所からあとの文章はこうですね。「私の所属している、ル・パリジャンヌ誌は、アメリカのセブンティーン誌や、遠い極東日本の、ジヨセイヌ・ジーシン誌などと特約のある姉妹誌で十七、八歳のハイティーンを目標に、スターの噂話や、世界の名勝や、男女交際のスマートなやり方などを指導する雑誌であり、たまたまこの賑やかなアメリカ大博覧会は、近く開かれる東京オリンピツクとともに、我々女性関係誌のジヤーナリストの腕の見せ所であつた。」ご出品のご本は、当時、詐欺罪で差し押さえられ、発禁になりました。亡くなったエロ本作家の胡桃沢耕史(訳者名:清水正二郎)の創作です。本物のバロウズの翻訳本ではありません。

「極東日本の、ジョセイヌ・ジーシン誌」だって、笑っちゃうよね。ほんと、胡桃沢さん、やってくれるわ。

 やったー、ぼくのものになった! 中身は贋物だけど、画像のものがぼくのものになった。8000円は、ちょっと高かったけど、いま手に入れなかったら、いつ手に入れられるかわからなかったからうれしい。中身は、胡桃沢耕史さんの創作ね。しかもいま、ぼくが持ってるものとおんなじ内容、笑。早期終了してもらった。じつは、最後に、ぼくは、つぎのような質問をしていたのだった。 質問かな、強迫かな。

 そういった事情を知られたからには、出品されたご本の説明を改められないと、落札者の方とトラブルになりかねません。小生は、そういった事情を知っていても、この8000円という金額で、買わせていただくことに依存はありません。ウィリアム・バロウズの熱狂的なファンですから。オークションを早期終了していただければ、幸いです。

 贋物だとわかっていたんだけど、バロウズ・コンプリートのぼくは、ちょっとまえに、

 世界秘密文学選書10 裸のランチ ミッキー・ダイクス/清水正二郎訳 浪速書房

を買ってたんだけど、その本の末尾についている著者のミッキー・ダイクスの経歴の紹介文って、現実のウィリアム・バローズのものの経歴だった。ちなみに、訳者はこれまた清水正二郎さん、つまり、胡桃沢耕史さん。ほんと、あやしいなあ。このミッキー・ダイクスの『裸のランチ』の裏表紙の作品紹介文がすごいので、紹介するね。

「アメリカの、アレン・ギンスバークと共に、抽象的な難解な語句で 知られる、ミッキー・ダイクスが、詩と散文の間における、微妙な語句 の谷間をさまよいながら、怪しい幻影のもとに画き出したのが、この作品である。ほとんど翻訳不可能の、抽象の世界に躍る語句を、ともかくも、もっとも的確な日本語に訳さねばならぬので、大変な苦心をした。陰門、陰茎、陰核、これらの語句が、まるで機関銃のように随所に飛び 出して、物語のムードを形作っている。しかし、現実には、それは何等ワイセツな感情を伴わなくても、他のもっと迂遠な言葉に言い変えねばならない。かくして来上がったものは、近代の詩人ダイクスの企画するものとははなはだしく異なったものとなってしまった。しかし現実の公刊物が許容される範囲では、もっとも原文に近い訳をなし得たものと自負している。         訳者」

「ギンズバーグ」じゃなくて、「ギンスバーク」って、どこの国の詩人? そりゃ、詐欺で、差し押さえられるわ。ぼくは、500円で買ったけれど、この本、ヤフオクでいま5800円で出品しているひとがいたり、amazon では、79600円とか9万円以上で出品しているひとがいて、まあ、ゴーヨクなキチガイどもだな。

 しかし、こんな詐欺をしなきゃ生きていけなかった胡桃沢耕史って方、きつい人生をしてらっしゃったのかもしれない。自己嫌悪とかなしに、作家が、こんな詐欺を働くなんて、ぼくには考えられない。こういった事情のことを、戦後のどさくさにいっぱい出版業界はしてたんだろうけど。いま、こんなことする出版社はないだろうな。知らないけど。

 ちなみに、本物のウィリアム・バロウズの『裸のランチ』って、陰門や陰核なんて、まったく出てこないし(記憶にないわ)。むしろ、出てくるのは、ペニスと肛門のことばかり。

二〇一四年十月十九日 「土曜日たち」

はなやかに着飾った土曜日たちにまじって
金曜日や日曜日たちが談笑している。
ぼくのたくさんの土曜日のうち
とびきり美しかった土曜日と
嘘ばかりついて
ぼくを喜ばせ
ぼくを泣かせた土曜日が
カウンターに腰かけていた。
ほかの土曜日たちの目線をさけながら
ぼくはお目当ての土曜日のそばに近づいて
その肩に手を置いた。
その瞬間
耳元に息を吹きかけられた。
ぼくは
びくっとして振り返った。
このあいだの土曜日が微笑んでいた。
お目当ての土曜日は
ぼくたちを見て
コースターの裏に
さっとペンを走らせると
そのコースターを
ぼくの手に渡して
ぼくたちから離れていった。

二〇一四年十月二十日 「チョコレートの半減期」

おやじの頭髪の、あ、こりゃだめか、笑。
地球の表面積に占める陸地の割合の半減期。
友だちと夜中まで飲んで騒いで過ごす時間の半減期。
恋人の顔と自分の顔との距離の半減期。
大学の授業出席者数の半減期。
貯蓄の半減期。
問題の半減期。
悲しみの半減期。
痛みの半減期。
将来の半減期。
思い出の半減期。
聞く耳の半減期。
視界の半減期。
やさしさの半減期。
機会の半減期。
幸福の半減期。
期待の半減期。
反省の半減期。
復習の半減期。
予習の半減期。
まともな食器の半減期。
原因の半減期。
理由の半減期。
おしゃべりの半減期。
沈黙の半減期。
恋ごころの半減期。
恋人の半減期。
チョコレートの半減期。

二〇一四年十月二十一日 「魂」

 魂が胸のなかに宿っているなどと考えるのは間違いである。魂は人間の皮膚の外にあって、人間を包み込んでるのである。死は、魂という入れ物が、自分のなかから、人間の身体をはじき出すことである。生誕とは、魂という入れ物が、自分のなかに、人間の身体を取り込むことを言う。

二〇一四年十月二十二日 「卵病」

コツコツと
頭のなかから
頭蓋骨をつつく音がした
コツコツ
コツコツ
ベリッ
頭のなかから
ひよこが出てきた
見ると
向かいの席に坐ってた人の頭の横からも
血まみれのひよこが
ひょこんと顔をのぞかせた
あちらこちらの席に坐ってる人たちの頭から
血まみれのひよこが
ひょこんと姿を現わして
つぎつぎと
電車の床の上に下りたった

二〇一四年十月二十三日 「十粒の主語」

とてもうつくしいイメージだ。
主語のない
という主題で書こうとしたのに
十粒の主語
という
うつくしい言葉を見つけてしまった。

ああ
そうだ。
十粒の主語が、ぼくを見つけたのだった。
どんな粒だろう。
きらきらと輝いてそう。
うつくしい。
十粒の主語。

二〇一四年十月二十四日 「よい詩」

よい詩は、よい目をこしらえる。
よい詩は、よい耳をこしらえる。
よい詩は、よい口をこしらえる。

二〇一四年十月二十五日 「わけだな。」

 ウォレス・スティーヴンズの『理論』(福田陸太郎訳)という詩に 「私は私をかこむものと同じものだ。」とあった。 としら、ぼくは空気か。 まあ、吸ったり吐いたり、しょっちゅうしてるけれど。ブリア・サヴァラン的に言えば ぼくは、ぼくが食べた物や飲んだ物からできているのだろうけれど、ヴァレリー的に言えば、ぼくは、ぼくが理解したものと ぼくが理解しなかったものとからできているのだろう。それとも、ワイルド的に、こう言おうかな。 ぼくは、ぼく以外のすべてのものからできている、と。まあ、いずれにしても、なにかからできていると考えたいわけだ。わけだな。

二〇一四年十月二十六日 「強力な詩人や作家」

 真に強力な詩人や作家といったものは、ひとのこころのなかに、けっしてそのひと自身のものとはならないものを植えつけてしまう。

二〇一四年十月二十七日 「名前」

人間は違ったものに同じ名前を与え
同じものに違った名前を与える。
名前だけではない。
違ったものに同じ意味を与え
同じものに違った意味を与える。
それで、世界が混乱しないわけがない。
むしろ、これくらいの混乱ですんでいるのが不思議だ。

二〇一四年十月二十八日 「直角のおばさん」

箪笥のなかのおばさん
校長先生のなかの公衆電話
錘のなかの海
パンツのなかの太陽
言葉のなかの惑星
無意識のなかの繁殖

箪笥のうえのおばさん
校長先生のうえの公衆電話
錘のうえの海
パンツのうえの太陽
言葉のうえの惑星
無意識のうえの繁殖

箪笥のよこのおばさん
校長先生のよこの公衆電話
錘のよこの海
パンツのよこの太陽
言葉のよこの惑星
無意識のよこの繁殖

箪笥のしたのおばさん
校長先生のしたの公衆電話
錘のしたの海
パンツのしたの太陽
言葉のしたの惑星
無意識のしたの繁殖

箪笥のなかのおばさんのなかの校長先生のなかの公衆電話のなかの錘のなかの海のなかのパンツのなかの太陽のなかの言葉のなかの惑星のなかの無意識のなかの繁殖

箪笥のうえのおばさんのうえの校長先生のうえの公衆電話のうえの錘のうえの海のうえのパンツのうえの太陽のうえの言葉のうえの惑星のうえの無意識のうえの繁殖

箪笥のよこのおばさんのよこの校長先生のよこの公衆電話のよこの錘のよこの海のよこのパンツのよこの太陽のよこの言葉のよこの惑星のよこの無意識のよこの繁殖

箪笥のしたのおばさんのしたの校長先生のしたの公衆電話のしたの錘のしたの海のしたのパンツのしたの太陽のしたの言葉のしたの惑星のしたの無意識のしたの繁殖

箪笥が生んだおばさん
校長先生が生んだ公衆電話
錘が生んだ海
パンツが生んだ太陽
言葉が生んだ惑星
無意識が生んだ繁殖

箪笥を生んだおばさん
校長先生を生んだ公衆電話
錘を生んだ海
パンツを生んだ太陽
言葉を生んだ惑星
無意識を生んだ繁殖

箪笥のまわりにおばさんが散らばっている
校長先生のまわりに公衆電話が散らばっている
錘のまわりに海が散らばっている
パンツのまわりに太陽が散らばっている
言葉のまわりに惑星が散らばっている
無意識のまわりに繁殖が散らばっている

箪笥がおばさんを林立させていた
校長先生が公衆電話を林立させていた
錘が海を林立させていた
パンツが太陽を林立させていた
言葉が惑星を林立させていた
無意識が繁殖を林立させていた

箪笥はおばさんを発射する
校長先生は公衆電話を発射する
錘は海を発射する
パンツは太陽を発射する
言葉は惑星を発射する
無意識は繁殖を発射する

箪笥はおばさんを含む
校長先生は公衆電話を含む
錘は海を含む
パンツは太陽を含む
言葉は惑星を含む
無意識は繁殖を含む

箪笥の影がおばさんの形をしている
校長先生の影が公衆電話の形をしている
錘の影が海の形をしている
パンツの影が太陽の形をしている
言葉の影が惑星の形をしている
無意識の影が繁殖の形をしている

箪笥とおばさん
校長先生と公衆電話
錘と海
パンツと太陽
言葉と惑星
無意識と繁殖

箪笥はおばさん
校長先生は公衆電話
錘は海
パンツは太陽
言葉は惑星
無意識は繁殖

箪笥におばさん
校長先生に公衆電話
錘に海
パンツに太陽
言葉に惑星
無意識に繁殖

箪笥でおばさん
校長先生で公衆電話
錘で海
パンツで太陽
言葉で惑星
無意識で繁殖

ポエジーは思わぬところに潜んでいることだろう。
これらの言葉は、瞬時にイメージを形成し、即座に破壊する。
ここでは、あらゆる形象は破壊されるために存在している。

単純であることと複雑であることは同時に成立する。

箪笥がおばさんを直角に曲げている
校長先生が公衆電話を直角に曲げている
錘が海を直角に曲げている
パンツが太陽を直角に曲げている
言葉が惑星を直角に曲げている
無意識が繁殖を直角に曲げている

左目で見ると箪笥 右目で見るとおばさん
箪笥の表面積とおばさんの表面積は等しい
箪笥を粘土のようにこねておばさんにする
箪笥はおばさんといっしょに飛び去っていった
箪笥の抜け殻とおばさんの貝殻
箪笥が揺れると、おばさんも揺れる
すべての箪笥が滅びても、おばさんは生き残る
右半分が箪笥で、左半分がおばさん
左目で見ると校長先生 右目で見ると公衆電話
校長先生の表面積と公衆電話の表面積は等しい
校長先生を粘土のようにこねて公衆電話にする
校長先生は公衆電話といっしょに飛び去っていった
校長先生の抜け殻と公衆電話の貝殻
校長先生が揺れると、公衆電話も揺れる
すべての校長先生が滅びても、公衆電話は生き残る
右半分が校長先生で、左半分が公衆電話
左目で見ると錘 右目で見ると海
錘の表面積と海の表面積は等しい
錘を粘土のようにこねて海にする
錘は海といっしょに飛び去っていった
錘の抜け殻と海の貝殻
錘が揺れると、海も揺れる
すべて海が滅びても、錘は生き残る
右半分が錘で、左半分が海
左目で見るとパンツ 右目で見ると太陽
パンツの表面積と太陽の表面積は等しい
パンツを粘土のようにこねて太陽にする
パンツは太陽といっしょに飛び去っていった
パンツの抜け殻と太陽の貝殻
パンツが揺れると、太陽も揺れる
すべての太陽が滅びても、パンツは生き残る
右半分がパンツで、左半分が太陽
左目で見ると言葉 右目で見ると惑星
言葉の表面積と惑星の表面積は等しい
言葉を粘土のようにこねて惑星にする
言葉は太陽といっしょに飛び去っていった
言葉の抜け殻と惑星の貝殻
言葉が揺れると、惑星も揺れる
すべての惑星が滅びても、言葉は生き残る
右半分が言葉で、左半分が惑星
左目で見ると無意識 右目で見ると繁殖
無意識の表面積と繁殖の表面積は等しい
無意識を粘土のようにこねて繁殖にする
無意識は繁殖といっしょに飛び去っていった
無意識の抜け殻と繁殖の貝殻
無意識が揺れると、繁殖も揺れる
すべての無意識が滅びても、繁殖は生き残る
右半分が無意識で、左半分が繁殖

閉口ともなるとも午後とはなるなかれ。

いま言語における自由度というものに興味がある。
美しいヴィジョンを形成した瞬間に
そのヴィジョンを破壊するところに行ければいいと思う。

二〇一四年十月二十九日 「卵」

終日
頭がぼんやりとして
何をしているのか記憶していないことがよくある
河原町で、ふと気がつくと
時計屋の飾り窓に置かれている時計の時間が
みんな違っていることを不思議に思っていた自分に
はっとしたことがある

きょう
ジュンク堂で
ふと気がつくと
一個の卵を
平積みの本の上に
上手に立てたところだった

ぼくは
それが転がり落ちて
床の上で割れて
白身と黄身がぐちゃぐちゃになって
みんなが叫び声を上げるシーンを思い浮かべて
ゆっくりと
店のなかから出て行った

二〇一四年十月三十日 「ピーゼットシー」

 きょうからクスリが一錠ふえる。これまでの量だと眠れなくなってきたからだけど、どうなるか、こわい。以前、ジプロヘキサを処方してもらったときには、16時間も昏睡して死にかけたのだ。まあ、いままでもらっていたのと同じものが1錠ふえただけなので、だいじょうぶかな。ピーゼットシー。ぼくを眠らせてね。

二〇一四年十月三十一日 「王将にて」

 西院の王将で酢豚定食を食べてたら、「田中先生ですよね。」と一人の青年から声をかけられた。「立命館宇治で10年くらいまえに教えてもらってました。」とのことで、なるほどと。うううん。長く生きていると、どこで、だれが見てるかわからないという感じになってくるのかな。わ~、あと何年生きるんやろ。

 

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